- 2008-02-27 (水) 15:14
- 特集
二次災害の危険に対するニセコの考えは昔から明確だ。現場指揮者は自らの責任で雪崩の規模、デブリの状況などから危険評価を行い、二次雪崩の有無を判断して捜索を始める。そして生存の可能性がある限り捜索を続ける。救助技術で最も大切なことは、助けようとする気持ちなのだ。現在、ニセコでは各スキー場山頂駅舎にステンレスのゾンデ棒と、鋳鉄スコップを保管している。アルミスコップは雪崩が止まった直後、すぐに硬化するデブリには歯が立たない。ブレードの付け根から折れ曲がってしまうからだ。
ニセコのように標高差500Mに満たない小さな流域の谷では、事故に結びつく大規模な雪崩が起こればその殆んど全てが落ち、二次雪崩の危険は低下する。しかし北アルプスや日高山脈のような広大な流域と標高差のある山では状況は異なる。これらの山で雪崩が起きた直後は二次、三次雪崩の危険が続くことを忘れてはならない。たとえ見張りを付けても、時速100KMを超える雪崩から逃げることはできない。そもそも冬山登山では雪崩通路となる沢筋を、何の疑問も持たず登路として選び、また幕営することが非常識なことだ。しかし現代はこれらの雪崩地形が山岳スキーヤーやスノーボーダーによって当たり前に滑られる時代であり、その写真が雑誌を飾る。
雪崩地形だからと言って雪崩がいつも起こるわけではない。むしろなかなか起きない。その危険を判断し、避けることがスポーツとしての冬山登山や急斜面滑降の素晴らしさであり難しさだ。しかし人々は危険を過小評価し、やがて雪崩は起きないと思い込んでしまう。それを繰り返すうちに事故に遭ってしまうのだ。
私は1992年、パキスタン・カラコルムのラカポシという山で間一髪、巨大な氷河雪崩から逃れたことがある。懸垂氷河の崩壊は周期的に起こる。しかし予測はできない。そして発生すれば、時速200KMを超える雪崩から逃れることはできない。
その日、ナイフリッジとキノコ雪のルートに行き詰まった我々は氷河に下降し、クレバス帯にルートを求めていた。いつもより気温が高いと感じ、引き返しはじめた瞬間、標高差2500M上の懸垂氷河が轟音とともに崩れ、雪崩が始まった。雪崩の到達まで20秒はない。我々は必死で隠れる場所を探し、近くのベルグシュルンド(氷河の山側亀裂)に落ちる岩稜の陰に飛び込んだ。
直後に雪崩が襲い掛かってきた。無限に続くかと思える爆風に吸い込まれそうになりながら、我々は窪みの雪に打ち込んだピッケルにしがみついて耐えた。それは恐らく新幹線の屋根に、吹雪の日にしがみついているようなものだった。助かったのは、今考えても奇跡としか思えない。その時のザイルパートナーは遠征中に双子の赤ん坊の父親になる男だった。きっとこの子供たちが父親を救ったのだろう。
14回目のニセコ雪崩ミーティングが、12月22日にニセコで開かれる。今年の標語は「大切な人を失わないために」だ。私は雪崩の危険を軽視しない。そして事故は防止できると信じている。不可抗力の事故などないのだ。
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文:新谷 暁生(しんや あきお)
ニセコ雪崩調査所所長、シーカヤックガイド、登山家
1947年札幌生まれ。札幌西高、酪農学園大学卒業。
ネパール、パキスタン、中国、アンデスなどの山々を登る。1986年ヒマラヤ・チャムラン、1992年カラコルム・ラカポシで登山隊長を務める。1988年三浦雄一郎アコンカグア登山隊、1993年関野吉晴グレートジャーニーなど現地でのサポートを行う。1996年9月ホーン岬遠征。冬期のホーン岬を世界で初めてカヤックで漕破する。2000年5月、2001年5月アリューシャン遠征。知床半島のシーカヤックツアー「知床エクスペディション」は91回を数える。冬期はニセコでスキーシーズン中の毎朝「ニセコなだれ情報」を発信し、雪崩事故防止のための活動に取り組んでいる。ニセコモイワ山麓で30年にわたりロッジウッドペッカーズを経営。新谷暁生氏の著書
73回目の知床
バトル・オブ・アリューシャン
アリュート・ヘブン
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